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定期的にこの詐欺師シリーズをお届けしていますが
詐欺師からは先月の月末の返金は実行されず確認すると
今月11月の5日まで待ってほしいと交渉されこの日には守ってもらう事を
条件に同意しましたが現在11日になりましたがいまだ返金は行われず
自分の給与(IBMフィリピン ケソンシティー勤務)は自分の生活費と
身の丈以上の生活、子供の私学への支払い、カジノへの支出へのみ行われ
メールや電話などの連絡ももう3日間来ない状況が続いております。
やはり詐欺師(KOMORI MASURU)には完全に注意して下さい。
フィリピンにおける日本人被害の詐欺事件では泣き寝入りが殆どですが
その中のかなりのウェイトをこのKOMORIが悪行をを行い占めている可能性があります。
言葉巧みにお金を出させて搾取するという方法は最初から事業への投資より搾取が
目的で非常に子供じみた言い訳でのらりくらりとかわすこの術は実に
プロレベルです。
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と言う事で今日はある手続きを行いました。
彼とは五回にわたる話し合いの結果 決別に終わっておりましたが
その前に行ったたった1度の約束事も果たしてもらえることは
なかったのでとっても日本人同士で残念ではありましたが
STEP2に進めさせていただきました。
TOTALでSTEP5までの詐欺師へのスキームを準備して
臨んだ今回の事件への対応でしたが予想通りSTEP2に進んでしまいました。
やはり強敵です。
フィリピンで連戦連勝の詐欺師だけあります。
やりごたえがあります。
今回は僕も詐欺師と言う事もあり断固姿勢を崩さず
一貫した作戦を引いていきたいと持っております。
そうです!STEP2まではあくまでも返金を要求し返金に優先順位を
置いた方法ではありますが次のSTEP3からは返金をあきらめて社会的制裁を
大きく加えていくという手段でもあります。
STEP2非常に甘い戦略であります。
職場や関係各所へのNBIからの呼び出し通達を送るというのが
今回の手続きであります。
言い訳と言うよりうそをつくのが仕事としているKOMORIですから
これくらいのことでもへっちゃら!かもしれませんね!!!
ただ、彼にはNBI内にレポートが残っており数年前に彼が行っていた
覚せい剤の取引履歴が有るために今回のこの事件を合わせると
彼が本当は支払いに応じない限りは
刑務所に行く可能性もかなり強くなるので
STEP2では彼はどのような手段に出てくるのか??
詐欺師の本領が垣間見れます。
今回は私の仕事の一つでもあります
日本人を救済する!というテーマのもと順に取り組んでいこうと思います。
このSTEP2をうまくクリアされますと
STEP3には約2か月後に進むことになります。
会社の職は失う可能性も非常に強くなりますしもうお金は返してもらえないかも
しれませんが社会的制裁を自然と法を元に課せられます。
STEP2で彼が再度同意してくれる事を心より臨みます。
今日はこの辺で・・・・
最後に私 『西田の自己紹介』
昭和44年8月28日 生まれ (現在46歳)
奈良県の超貧乏家の長男としてこの世に生まれることができました。
幼少時から何もない家庭に生まれたこともあり
物凄いハングリー精神が養われます。
当時の家庭にはテレビ、クーラーは中々高価で
ましてや自動車を持っているのは中級以上という社会でした。
ただ、超貧乏家ではありましたが小さなレストランをオヤジとお袋が
やっていたこともあり貰い物で白黒テレビのすっごく小さなやつと
クーラーの中古の木で出来たようなでかいやつは何故か
オヤジ専用でありました。
ただ、勝手に冷蔵庫を開け珍しく入っているヤクルトを飲むと
必ずお袋に叱られたのを覚えています。
そんな中で育っていきますが貧乏と裕福がある事が
次第にわかっていきます。
我が家は貧乏な方というのも実際にはその頃に確定させれました。
しかしその中で お袋に言われたこの言葉
『自分で稼いでなんでもこうたらいいねん』
この言葉が僕を奮い立たせます。
中学生からもうお金を稼ぐということに興味が出始めます。
勿論、働いてという感覚にはまだ程遠い状態でしたので
今だから言えますが 博打場を中学生ながら開催していました。
なんで僕の稼ぎは賭博場のディーラーでした。
実際にはルーレットのボードゲームにお金をかけてもらってそれで
設けていくというとんでもない少年でした。
しかし勿論勝負ですので負ける日もありました。
そんな中、中学3年生の夏休みにアルバイトに初めて出かけました。
道路のライン引きの助手のバイトです。
暑い真夏にヘルメットをかぶって毎日 毎日 奈良から大阪まで通い
アルバイトをこなしました。
2週間働いて5万円程の給料を貰ったのを今でも覚えています。
そんな調子で高校、そして専門学校へ進学させてもらいました。
親からは専門学校に行きたいといった時に
どえらい 怒られたことをこれまた覚えています。
いくら授業料いると思ってるんや!!!!
ちゃんと働いて返してや!!!
このお金は銀行に借りるんやからな!!!!
そんな勢いでしたがどうしてもバイクや自動車の整備士になりたくて
整備の学校へ進みました。
無事に卒業し整備士の国家テストも合格することができたのですが
僕はやはり変わっていました。
いきなり整備士で入社したトヨタのディーラーの人事の人に
営業に変えて欲しい!!!
整備士はやりたくない!と言ってしまったんです。
この事は勿論、お袋には言えるわけがありません。
20歳の春のことでした・・・。
も、猛烈に働きました。
21歳の頃には早速副業を開始しました。
トヨタに通いながら中古車販売店を作ったんです。
トヨタの下取り車などをどんどん自分え買取り
それを展示し 販売していくんです。
バブルがはじけてすぐではありましたが
まだまだ自動車はよく売れました。
25歳でトヨタを辞め独立しました。
何もかもうまく行く予定でしたがそうはいきません。
やはり、思うように自動車が売れないんです。
最初は良かったんですが事は深刻になっていきました。
ついにもう潰れるわ~、 と思ったその年27歳に結婚をする事に
なったんです。
勿論、出来ちゃった結婚です!!
でも今までの稼ぎで余裕があったその時はまだそれほどの
焦りはありませんでしたがそれからどんどん日が経つにつれて
ジリ貧になっていき遂にもう秒読み段階になった時に
人生の大逆転が始まりだしました。
たまたま手に入れた軽自動車の新古車が大爆発で売れまくったんです。
その当時まだ新古車なんてのは特別な自動車でそう簡単に手に入るものではありませんでした。
なんで、軽自動車の新古車専門店!!という看板を掲げ販売に力を入れたんです。
そうするとどんどん売れて売れて売れまくったんです。
瞬く間に2店舗目を出店しました。
この2店舗が今度は大失敗!!
せっかく ようやく掴んだチャンスと資金を失ってしまいます。
何をやっても上手くいかなかったタイミングからチャンスをつかみ
そのちゃんを更に活かそうと試みたのですが
焦りすぎて目測が甘すぎました。
今考えるとその2店舗目のお店は
はやることは無いと判断できます。
誰も知らないような路地裏にお店をOPENさせ自分でさえそこへ行くのに一苦労・・
迷ってしまうようなことさえある場所です。
場所なんてどうでもいいんだ!! これは売れる!!
完全なおごりでした。
すぐにその店舗を締め 元の1店舗に注意し一生懸命取り組みました。
1店舗目は調子がよくコツコツと更に積み重ねていると
半年後にまたチャンスが訪れます。
全く自信はありませんでしたが また2店舗芽を出すチャンスきました。
それは前回の失敗をしないように自分で何度も何度もその場所に
足を運び 毎日、毎日 その店舗が出来上がっていく様子を見に行く日々・・
そしてついに新しいテーマを兼ね揃えた新店舗がOPENできました。
女性専門の自動車販売店です。店舗の中にエステサロンを併設し女性と自動車を
くっつけたんです。
それが大当たり!この店舗は初月から80台の販売台数をこす超ドル箱店舗に
なりました。
この店舗を作ったことで今度は一気に加速します。
この店舗が話題になり会社が話題になりどんどん銀行が融資の提案に来て
投資家がどんどん集まりビジネスコンテストで入賞し
株式公開の提案も同時に起こり資金がどんどんあつまり
店舗は2年間で一気に6店舗、3年目には7店舗になっていました。
調子に乗りすぎました。
乗りに乗って買収した会社は3社、売上は50億円弱
最高売上を出した年、来年には株式公開準備を整えてきて
公開をする段取りが整っていたその年
銀行の貸し剥がし 貸し渋りに今度はあい もう対応が出来なくなり
第3社による申し立てによる破産で僕の20歳からの自動車屋の人生は
39歳で幕を下ろすことになりました。
其の日から始まった超 壮絶な人生・・・。
借金は会社の5億を保証人として個人補償していたので個人破産。。。
愛してやまない3人の息子と妻は ドラマのように置き手紙1枚を残し夜逃げ・・・
住んでいた家は出ていくことに 持っていたマンションは取り上げられ
生活していくために必要な心の支えすら全てなくりました。
私は、工事現場にある物置のスーパーハウスの中にその家にあった荷物の一部を
持ち込みそこでの生活が始まりました。
まずは真夏を経験しスーパーハウスの中はおそらく物凄い温度になり
朝は4時前に起きました。
冬は極寒になりました。
でもこの倉庫を貸してくれた友人には今でも感謝しています。
その間、私は遊んでいたのではありません。
どうしても どうしても 破産しても消すことができない闇の借金が
大きく残されていました。 生命保険をかけられ 借金の返済に迫られる毎日
それはものすごいプレッシャーでした。
毎月の返済額は72万円。
到底倒産直後の私に返せる金額ではありません。
それでも半年ものあいだはその金額を返済しました。
しかし息絶えました。 無理だったんです。その金額の返済は・・
返済金額を40万円に変更してもらいリスタート・・・
私は朝4時に起きまずは畑に行き一人で 農作業をします。
そしてその後、産業廃棄物の自動車に乗り粗大ゴミを回収します。
粗大ゴミの中から鉄とプラを分けて売りに行く毎日・・・
使えそうなものは全て持って帰ってヤフオクで売りさばきました。
勿論、給料は無し!その代わりそのゴミをすべてもらうことで
僕はお金を稼ぎました。
ただのものを集めて『売る』生活で僕は気がつくと100万円の収入を得ていました。
しかし、同時にいろいろな経費も発生していたので多くはもちろん手元には
残りません。
その頃に私の現在のこのフィリピンに居るきっかけとなった私の心の親分との出会いが
ありました。倒産し抜け殻になっていた僕がであった人はバリの日本人大富豪『丸尾さん』
通称『兄貴』です。
その壮絶なイキっぷりを見て感じて僕は奮い立ちました。
もうこのバリにすぐに戻っては来れないだろう・・・
今度ここへ来るときは違う自分を見つけてからだと・・・。
それから僕は3年間という日々を過ごしていきました。
42歳 転機です。 毎日の労働で体は疲弊しきっていました。
110キロ近くあった体重は85キロまで落ちていました。
この仕事を本当に続けていけるのか??
不安しかありません。
その転機は自動車業界のコンサルとしての話でした。
給料はなんと30万円・・・。
今より悪くなって借金は返せるわけがありません。
その道を選ぶわけがありません。
しかし、僕は時間が出来ればなんとか変化できるのではないか?
と考えその転職を決断しました。
時間ができたことで多くの人と会いことができました。
情報も得ること出来ました。
今までの3年間から一気に変わったんです。
足りないはずのお金も自由になることでなんとか収入を作ることができて
借金返済もしながら僕は バリの兄貴にも再開することが出来たんです!!
そしてバリには2ヶ月に1度 兄貴の話を聞きに行き
そして自分の目標を決めてアジア中を散策し多くの場所を見ることができました。
そしてその中で誰の縁もない コネも無い そんな場所で金もない僕の生活を
新たにスタートさせようと始めたのがここフィリピンです。
約3年ものあいだ行き来したものの何の縁もできなかったこの街を
選び生活の場として選び移住しました。
今で1年と7ヶ月目になります。
生活の場として選んだフィリピンはそれは苦労の連続でした。
いや、現在も苦労しています。 が、それは自分が選んだ道!!
全く後悔はしていません。
それどころか感謝しています。
もう一度、手作りで色々と1から作ることができました。
大きなものは経験でありそれを伝えるための心の余裕です。
苦しむために生まれてきたのではなく楽しむために人生は
あります。
長くなりましたがそんな私がここフィリピンで足で歩いて
動きまくって経験した実際の情報や遊び方、遊び場所
ビジネスにおいてはその重要なポイントなどにおいても
お話をしていきたいと思います。
長くなりましたが自己紹介とさせていただきます。