西田の自己紹介

昭和44年8月28日生まれ(現在46歳)

奈良県の超貧乏家の長男としてこの世に生まれることができました。

幼少時から何もない家庭に生まれたこともあり、物凄いハングリー精神が養われます。当時の家庭にはテレビ、クーラーは中々高価で、ましてや自動車を持っているのは中級以上という社会でした。

西田家は超貧乏家ではありましたが、小さなレストランをオヤジとお袋がやっていたこともあり、貰い物で白黒テレビのすっごく小さなやつと、クーラーの中古の木で出来たようなでかいやつは何故かオヤジ専用でありました。

ただ、勝手に冷蔵庫を開け珍しく入っているヤクルトを飲むと必ずお袋に叱られたのを覚えています。

そんな中で育っていきますと、貧乏と裕福がある事が次第にわかっていきます。我が家は貧乏な方というのも、その頃に確定させられました。

しかしその中で お袋に言われたこの言葉
『自分で稼いでなんでもこうたらいいねん』
この言葉が僕を奮い立たせます。

中学生からもうお金を稼ぐということに興味が出始めます。勿論、働いてという感覚にはまだ程遠い状態でしたので、今だから言えますが「博打場」を中学生ながら開催していました。

なので、僕の稼ぎは賭博場のディーラーでした。

実際にはルーレットのボードゲームにお金をかけてもらって、それで儲けていくというとんでもない少年でした。しかし勝負ですので、もちろん負ける日もありました。

そんな中、中学3年生の夏休みにアルバイトに初めて出かけました。

道路のライン引きの助手のバイトです。暑い真夏にヘルメットをかぶって、毎日毎日奈良から大阪まで通い、アルバイトをこなしました。2週間働いて5万円程の給料を貰ったのを今でも覚えています。

そんな調子で高校、そして専門学校へ進学させてもらいました。親からは専門学校に行きたいといった時に、どえらい怒られたことをこれまた覚えています。

『いくら授業料いると思ってるんや!!!!』
『ちゃんと働いて返してや!!!』
『このお金は銀行に借りるんやからな!!!』

そんな勢いでしたが、どうしてもバイクや自動車の整備士になりたくて整備の学校へ進みました。

無事に卒業し整備士の国家テストも合格することができたのですが、僕はやはり変わっていました。
いきなり整備士で入社したトヨタのディーラーの人事の人に
『営業に変えて欲しい!!!』
『整備士はやりたくない!

と言ってしまったんです。

この事は勿論、お袋には言えるわけがありません。

20歳の春のことでした・・・。

も、猛烈に働きました。

21歳の頃には早速副業を開始しました。

トヨタに通いながら中古車販売店を作ったんです。トヨタの下取り車などをどんどん自分で買取り、展示し、販売していくんです。バブルがはじけてすぐではありましたが、まだまだ自動車はよく売れました。

25歳でトヨタを辞め独立しました。

何もかもうまく行く予定でしたがそうはいきません。

思うように自動車が売れないんです。
最初は良かったんですが事は深刻になっていきました。
そして、もう潰れるわ~と思ったその年、27歳に結婚をする事になったんです。

もちろん、来ちゃった結婚です!!

でも、今までの稼ぎで余裕があったその時は、まだそれほどの焦りはありませんでしたが、それからどんどん日が経つにつれてジリ貧になっていき、遂に倒産秒読み段階になった時に人生の大逆転が始まりだしました。

たまたま手に入れた軽自動車の新古車が大爆発で売れまくったんです。

その当時まだ新古車なんてのは特別な自動車でそう簡単に手に入るものではありませんでした。なので、軽自動車の新古車専門店!!という看板を掲げ販売に力を入れたんです。そうするとどんどん売れて売れて売れまくったんです。

瞬く間に2店舗目を出店しました。

この2店舗が今度は大失敗!!!

せっかく掴んだチャンスと資金を失ってしまいます。。。何をやっても上手くいかなかったタイミングからチャンスをつかみ、そのちゃんを更に活かそうと試みたのですが、、、焦りすぎて目測が甘すぎました。

今考えるとその2店舗目のお店は流行る事は無いと判断できます。誰も知らないような路地裏にお店をOPENさせ自分でさえそこへ行くのに一苦労・・迷ってしまうようなことさえある場所です。

場所なんてどうでもいいんだ!!
これは売れる!!

完全なおごりでした。。。

すぐにその店舗を締め、元の1店舗に注意し一生懸命取り組みました。1店舗目は調子がよくコツコツと更に積み重ねていると半年後にまたチャンスが訪れます。

全く自信はありませんでしたが また2店舗芽を出すチャンスきました。

前回と同じ失敗をしないように、自分で何度も何度もその場所に足を運び、毎日、毎日、その店舗が出来上がっていく様子を見に行く日々・・

そしてついに新しいテーマを兼ね揃えた新店舗がOPENできました。

女性専門の自動車販売店です。
店舗の中にエステサロンを併設し女性と自動車をくっつけたんです。

それが大当たり!
この店舗は初月から80台の販売台数をこす超ドル箱店舗になりました。

この店舗を作ったことで今度は一気に加速します。
この店舗が話題になり会社が話題になりどんどん銀行が融資の提案に来て、投資家がどんどん集まりビジネスコンテストで入賞し、株式公開の提案も同時に起こり、資金がどんどんあつまり店舗は2年間で一気に6店舗、3年目には7店舗になっていました。

調子に乗りすぎました。

乗りに乗って買収した会社は3社、売上は50億円弱。
最高売上を出した年、来年には株式公開準備を整えてきて、公開をする段取りが整っていたその年、銀行の貸し剥がし、貸し渋りにあい、もう対応が出来なくなり、第3社による申し立てによる破産で僕の20歳からの自動車屋の人生は39歳で幕を下ろすことになりました。

其の日から始まった超 壮絶な人生・・・。

借金は会社の5億を保証人として個人補償していたので個人破産。。。
愛してやまない3人の息子と妻は ドラマのように置き手紙1枚を残し夜逃げ・・・住んでいた家は出ていくことに 持っていたマンションは取り上げられ、生活していくために必要な心の支えすら全てなくりました。

私は、工事現場にある物置のスーパーハウスの中にその家にあった荷物の一部を持ち込みそこでの生活が始まりました。

まずは真夏を経験しました。
スーパーハウスの中は物凄い温度になりました。
朝は4時前に起きました。
冬は極寒になりました。

でもこの倉庫を貸してくれた友人には今でも感謝しています。

その間、私は遊んでいたのではありません。
どうしても、どうしても、破産しても消すことができない闇の借金が大きく残されていました。

生命保険をかけられ、借金の返済に迫られる毎日、、、
それはものすごいプレッシャーでした。

毎月の返済額は72万円。

到底倒産直後の私に返せる金額ではありません。
それでも半年ものあいだはその金額を返済しました。

しかし息絶えました。
無理だったんです。
その金額の返済は・・

返済金額を40万円に変更してもらいリスタート・・・
私は朝4時に起きまずは畑に行き、一人で農作業をします。

そしてその後、産業廃棄物の自動車に乗り粗大ゴミを回収します。

粗大ゴミの中から鉄とプラを分けて売りに行く毎日・・・
使えそうなものは全て持って帰ってヤフオクで売りさばきました。

勿論、会社からの給料は無し!
その代わりそのゴミをすべてもらうことで僕はお金を稼ぎました。

ただのものを集めて『売る』生活で、僕は気がつくと100万円の収入を得ていました。しかし、同時にいろいろな経費も発生していたので多くはもちろん手元には残りません。

その頃に私の現在のこのフィリピンに居るきっかけとなった私の心の親分との出会いがありました。倒産し抜け殻になっていた僕がであった人はバリの日本人大富豪『丸尾さん』

通称『兄貴』です。

その壮絶なイキっぷりを見て感じて僕は奮い立ちました。
もうこのバリにすぐに戻っては来れないだろう・・・今度ここへ来るときは違う自分を見つけてからだと・・・。

それから僕は3年間という日々を過ごしていきました。

42歳、転機です。

毎日の労働で体は疲弊しきっていました。
110キロ近くあった体重は85キロまで落ちていました。

この仕事を本当に続けていけるのか??
不安しかありません。

その転機は自動車業界のコンサルとしての話でした。
ただ給料はなんと30万円・・・。

今より悪くなって借金は返せるわけがありませんので、
普通ならその道を選ぶわけがありません。

しかし、僕は時間が出来ればなんとか変化できるのではないか?
と考えその転職を決断しました。

時間ができたことで多くの人と会いことができました。
情報も得ること出来ました。
今までの3年間から一気に変わったんです。
足りないはずのお金も自由になることでなんとか収入を作ることができて、借金返済もしながら僕はバリの兄貴にも再開することが出来たんです!!

そしてバリには2ヶ月に1度、兄貴の話を聞きに行き、そして自分の目標を決めてアジア中を散策し多くの場所を見ることができました。

そしてその中で誰の縁もない、コネも無い、、、
さらに金もない僕の生活を新たにスタートさせようと始めたのがここフィリピンです。

約3年ものあいだ行き来したものの何の縁もできなかったこの街を生活の場として選び移住しました。

今で1年と7ヶ月目になります。

生活の場として選んだフィリピンはそれは苦労の連続でした。

いや、現在も苦労しています。
が、それは自分が選んだ道!!
全く後悔はしていません。

それどころか感謝しています。

もう一度、手作りで色々と1から作ることができました。
大きなものは経験でありそれを伝えるための心の余裕です。

苦しむために生まれてきたのではなく楽しむために人生はあります。

長くなりましたがそんな私がここフィリピンで足で歩いて動きまくって経験した実際の情報や遊び方、遊び場所、ビジネスにおいてはその重要なポイントなどにおいてもお話をしていきたいと思います。

長くなりましたが自己紹介とさせていただきます。